法語塚

境内にある法語塚を紹介いたします。

いろは歌

「いろはにほへと ちりぬるを  わがよたれぞ つねならん  ういのおくやま けふこえて  あさきゆみじ ゑひもせず」

 いわずと知れた、いろは歌です。現代では「イロハ」等記号として用いられることが多いように思いますが、真言宗の宗歌にもなっておりまして、一字一句同じ言葉をつかわず、かつ仏教的な意味が含んでおり、宗祖弘法大師の御作として伝えられております。

中に含まれている仏教的な意味は「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」、涅槃経に書かれている4句の偈文です。

諸行は無常なり = この世界に存在しているものは、全て変化している。ちょっと見た目じゃわからないけれども、 大きな岩ですらいつかは砂となることでしょう。

是れ生滅の法なり=上のように私達を含め、全てのものは変化するのですから、生まれては死ぬ、これは真理なのです。

生滅が滅しおわって=生まれてきたものは滅する、自分もまたそういった存在である。修行しそのことを体感することによって生まれ死ぬといった迷い、苦しみから精神的に自由を得た境地に達することが出来るのです。

寂滅を楽となす=生滅をはなれた絶対的な心の安らぎを涅槃といいます。寂滅も涅槃と同じ意味であり、こういった真理を学び修行することで本当の安楽を手にすることができるのです

 これをお大師様は、色は匂へど散りぬるを=諸行無常、我世誰ぞ常ならん=是生滅法、有為の奥山今日越えて=生滅滅已、浅き夢見じ酔いもせず=寂滅為楽とお詠いになられました。
 簡単に申し上げますと、世の中のものは常に変化しています。桜の花が綺麗でいつまでも見ていたいと思っていても、やがては散ってしまいます。自分がずっと若くあり続けたい、世界に対してこのままであってほしいと思っても、全ては変化していくのです。

 私達は物への執着、自分への執着そういったものがありますが、この世のものは全て変化していくものだと感じなければなりません。
そうしなければ苦しいままなのです。生まれては滅するといった真理を身に付けることで、死の嘆きや物事に執着して苦しむ事からはなれ、いつも明るい心で、頂いたご縁(いのち)を精一杯生きることができるのです。それが大きな安楽、幸せへとつながっていくのです。
皆さんが知るいろは歌にはこういった教えがあります。 南無大師遍照金剛


縁起

 「袖ふれ合うも多少の縁」、「縁もたけなわ」等申しますが、縁とは仏教の言葉であります。
西洋では「天地創造」天も地も人も全て神様がお造りになられたとされておりますが、お釈迦様はこの世界は縁によって起こっているとお説きになられたのです。

 種をまいて作物が実ることには、たくさんの縁をもって実ります。決して種だけで作物が実ることは無いのです、種を育てる土、そして水、太陽の光、人の力、たくさんの縁が加わってはじめて作物ができるのです。この世界はすべて孤立してあるのではなく、必ず何か関わりをもって生まれているのです。私達がこうして生きているのも、たくさんのご縁をもって生きています、自分が一人で生きている訳ではないのです。

 修行中、食べ物を頂く時に5つの観想を致します。その中のひとつに、今ここにある食べ物がどうやって今ここにあるのか、想像する観想があります。米一つにしてみましても、昔は八十八の行程を辿り米ができる。そして太陽や雨や土、様々な力を得て今食べることができるのです。
 私達一人ひとりは、地球上に住む全ての生命、果ては宇宙の星の動きまでも全てが関りあって、そこにあるのです。
 ですから「いのち」を大切に、それぞれの人生というご縁を大切に、またお互いに助け合ってすばらしいご縁を築いていくことで、この世界は明るい世界となっていきます。


七仏通誡偈


上の文句は 「七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)」と言います。
仏教という大宗教はお釈迦様一代で成就したのではなく、過去に成仏した六人の仏様の前生の功徳が積み重なった結果だと説いております。
お釈迦様は七代目の仏様であり、この事から七仏といわれており、その間ずっと説き続けられてきた教えが上の碑に刻まれております。

・諸悪莫作 (しょあくまくさ)     悪いことをせず

・衆善奉行 (しゅぜんぶぎょう)   良いことをしなさい

・自浄其意 (じじょうごい)      そして自分の心を清らかにする

・是諸仏教 (ぜしょぶっきょう)   それが仏教の教えです

当たり前のことですが、中々出来るものではありません。この七仏通誡偈に関するこんなエピソードがあります。

 昔、中国に白居易という方が居られました。詩人の白楽天といえば聞いた方もおられるかもしれません。その方は頭も良くエリートであり、若いときは出世コースの最前線におられました。
しかしながら、40歳の時に母と幼い娘の死に遭遇します。重ねて50歳にして失墜し都をはなれる事となりました。権力争いから離れ、地方にでたのです。

 そんな不幸な身のゆえがためか、彼は仏教に目を向けるようになっていきました。そしてその頃、彼が行った地方に鳥カ道林(ちょうかどうりん)という名物僧がおりました。この僧は山の中の木の上に鳥の巣のような物を作り、そこで坐禅しておられたそうです。

 この僧に会いに行った白居易は僧にいいます。「あなたそんなところで、坐禅していては危険ですよ!」

僧は白居易にいいます「あなたの方がもっと危険だ! あなたの住む世界は常に裏切りや犠牲、失脚、寝返り、そんな危険が渦巻く中、何時足元をすくわれてもおかしくないではないですか」
白居易は一本取られたと思い、僧に聞きます「お釈迦様の教えの大意はなんであるか」

僧は「諸悪莫作・衆善奉行」と答えます。良いことをして悪いことをするなということです。

白居易は言います「そんなこと三歳の子供でもしっていますよ!」

僧は「三歳の子供でも知っているが、八十の老人でも難しいぞ」と説かれるのです。

第二回で縁のお話をしましたが、様々な働きによって私達がここに存在します。そして人それぞれ様々な人生があります。
そのなかでたくさんの選択を私達はしていきます、朝早く起きるか起きないかそんな小さなことから、人生を決める選択まで、そんな中で悪いことをしないで、良いことをする。

私達はどうしても自分中心に考えてしまい、選択を間違えてしまいますが、そんな普通の教えを心に留めて行動していくことが修行ではないでしょうか。

そうすることによって、縁の力で自ずから浄らかに、幸せな人生を歩めるのではないでしょうか。


般泥洹経 一節


この世界は縁でできていると、お釈迦様はお説きになられました。皆様の行い(因)が一つ一つ複雑に絡まりあい、この世界が出来ているのです(果)。ですから悪い事をすれば悪い世界になる、良い事をすれば良い世界になる。

 良いこととは単純にいえば慈悲行であると思います。自分が自分がと自分ばかり考えず、どうすれば周りの人が幸せになることができるのか、そんなことを考え、実践することであると思います。

そういった、仏のような心の人はきっと周りも明るく幸せな環境を築くことができることでしょう。

逆に自分が自分がと、自分のことしか考えず我を通し、周りを傷つけていく人生の上では、どうでしょうか。
信頼されなくなり、また相手も信じられず、安心する時も無く、虚しい日々を築くことになるのではないでしょうか。

どうしても私達は欲に負け、自分が自分がという感情になってしまいます。心は人を仏にもして畜生にもする、自分の心を振り返る事が大切です。


御遺告 一節


「我が後生の門徒たとい我が現相を見ずと雖も 我が形像を見る毎に真相の想いを生じ 我が教えを聞く毎に我が言音の思いを住ぜば 我れ定慧力をもって摂取して捨てず」

これはお大師様の御遺告という文章の一節であります。言わばお大師様の最後のお告げです。
お大師様がご入定された後に生まれた信者の方々は、お大師様の現存した生きている姿、言葉そういったことに触れる事ができません。しかし、お大師様の御影(お姿)を見る度に、自身の心を振り返る事ができる、また悩みや苦しみを打ち明ける事が出来る、そんな心が生じ、
お大師様の教えを知るたびに、お大師様はこうおしゃられていたのではないかと、思いを馳せ気づくことができる。

必ず、捨てない、幸せにしてみせると、そうおっしゃられ、今も尚、お大師様は仏様の力を持って、私達を見守っておいでになります。   

南無大師遍照金剛


勝鬘経 一節


花は咲く縁があつまって、花はただそれだけで咲いているのではありません。
土や空気、太陽、花が咲くにはたくさんの縁があってはじめて咲くのです。

花は散る縁が集って散る、散るときもまた一緒です。虫たちが花粉を運び受粉してくれる、花の役目が終わったのならばまた新しい命に繋がっていきます。
ひとり咲きひとり散るのではない、たくさんの縁によって花は咲いて散っていくのです。

私達も一緒です、こうして縁があって人生を歩ませて頂いてる、一人で生きているのではなく、たくさんの命と共に、たくさんのご縁の中で生かし生かされているのです。
決して自分ひとりで咲いているのではない、生きているのではない、たくさんのご縁、恩に感謝して精一杯生きて行きたいものです。


維摩経 一節


「一切の衆生病むを以っての故に、我れ病む」

これは、維摩経というお経の一説です。

聖徳太子は三経義疏という日本人で最初の仏典の注釈書を三つお書きになられました。
維摩経はそのうちの一つで、他は法華経、 勝鬘経となっております。

維摩経は維摩居士という在家の方が主役となって、たくさんの菩薩や声門と問答しあい、論破していく物語形式となっております。
上記は、維摩居士が病についたとき、文殊菩薩が「貴方の病は心が病むのか、身体が病むのか」と訪ねたときの答えです。

(維摩居士)「自分は肉体の執着を離れているから、身体は病まず、心というものは幻のようなものと知っているから心も病まない、ただ人々が病むために私も病むのです」

今の時代、世界では争いが絶えず罪の無い子供達が蝕まれ、発展途上の国では深刻な飢餓に陥っております。
私達の住む日本でも自分勝手な都合で物事を推し進めたり、親が子、子が親を傷つける事件が聞こえてきます。

維摩居士はこうした私達の行いが病むことによって、苦しむのだと文殊菩薩に答えたのです。

自分が自分がという執着をすて、社会が明るくなれる環境をつくることが大切です。

ちなみに興福寺の東金堂に維摩居士が祭られております。


葦束


お釈迦様が、縁を弟子達に説明した時に用いた言葉です。
友よ、ではたとえをもって説いてみよう。
友よ、たとえば、ここに、二つの葦束(あしたば)があるとするがよい。それら二つの葦束は、相依っているとき、立っていることができる。
 それとおなじように、これがあるから、かれがあるのであり、かれがあるから、これがあるのである。
 だが、もし、その二つの葦束のうち、一つの葦束を取り去れば、他の葦束もまた倒れるだろう。
 それとおなじく、これがなければ、かれはないのであり、かれがなければ、これもまたないのである。

簡単に言えば、私は貴方がいるからここにいるのであり、貴方がいなければ私はないということ、どんな物質も生物も存在する全てが、関係しています。

私なんかいなくても世界は変わらない、そんな事はないです。
山に一つのゴミを落としただけでも、その山は変化します。
大きな海に、水を一滴投じただけでも、それは変化しているのです。

お互いが関わりあって今という世界ができています。 決して一人で生きているわけではありません。
だからこそ、今という「いのち」を大切に、時間を大切に、相手がいなければ自分はいません。
お互いが笑って生活できる環境を築いていきましょう。


弘法大師第一番の御詠歌

「ありがたや 高野の山の岩かげに 大師はいまだ おはしますなる」

お大師様の第一番の御詠歌です。

この歌は当時の天台宗は延暦寺座主慈鎮大和尚が、入定されているお大師様に一目お会いしたいと一大発起され、古希に近い老体に鞭をうち、お供のものを連れ奥の院へ参拝し、三日三晩の断食の行をされ御廟前に修法をこらされました。

三日目の晩最後の修法の座を終えられた時、和尚様の眼前に入定されておられるお大師様が影向せられ、その感激を一気に綴ったのがこの句です。

宗派を越え、たくさんの人々から拝されるお大師様。
今のなお私達の幸せを願い、救いの手を差し伸べられておられます。   合掌

                上記は詠歌和讃の解説を引用させていただきました。


平沢 興 詠

「生かされて 生きるや今日の この生命 天地の恩 限りなき恩」 平沢 興 詠

 詩が大好きな檀家さんの法語塚です。
私たちは生まれてきて、自分のことを顧みず、あれやこれやと文句ばかり言って暮らしてしまいます。
 生きているということは、本当に有難い事です。こうして生きていることは、本当にたくさんのご縁によって生かされていることに気付かされます。
 高田好胤さんが、父母恩重経の「諸人よ 思い知れかし 己が身の 誕生の日は 母苦難の日」という一節を用いて、誕生日の事で、生まれてきた日に親に祝ってもらうが、本当は子供が有難うと感謝を述べる事が大切だと申していました。
 何故か私たちは、自分一人で生きてきた、生きている感覚に陥ってしまいます。
 しかし自分という人間は勝手に育ったかと思うとそうではない、親はもちろん、たくさんの人々、太陽の恵み、虫の営み、たくさんのお陰があって今の自分がここにいるのです。 
 そして今の瞬間も、生かされています。   合掌


弘法大師 弁顕密二教論


「衆生の心清浄なれば則ち佛を見 若し心不浄なれば則ち佛を見ず」
弘法大師著弁顕密二教論にある教えです。

 私たちの心が清らかであれば仏様を見ることが出来る、しかし穢れているならば仏様を見ることが出来ないという教えです。
 たとえ話ですが、私たちは自分の状態が良くないときよく喧嘩をしたり、愚痴を言います。
優しい言葉をかけてもらっても、「どうせあなたの事じゃないから良いよね」等思ってしまったり、せっかく良いアドバイスを頂いているのに、「そんなことなんで言われなきゃならないの」という気持ちが起きてしまったり、自分を中心として考えてその人の気遣いや、勇気ある行いが見えて来ない事があるのではないでしょうか。
 逆に知らず知らずにお世話になっていることに気づき感謝の心を起こしたり、また自分自身が行動して良い環境を作ることもあるでしょう。
 自分の心しだいで、世界は変わって見えてきます。
心をきよらかに、ほとけさまを見て暮らしたいと思います。 合掌


十住心論より  弘法大師

「昇堕は他の意にあらず 衰栄は我が是非なり」
人は生まれながらに、差別があります。 能力が違うし育つ環境もちがう。
 理不尽な事も起こりえます。しかし、お釈迦様は「生まれを問うなかれ、ただ行いを問え」と仰られているように、それぞれのご縁で自身のいのちを生きて行くしかありません。
 失敗やマイナスな事は人のせいで無く、地獄や餓鬼へ落ちて行くのも他のもののせいではない、自身のいのちが衰えるも栄えるも、この世を地獄にするも極楽にするも、自分自身の行いなのです。
 どうしても私達は失敗を人のせいにしてしまう、逆に自分が悪いと落ち込んでしまう。
正しい生き方というものは本当に難しいものです。 そんな中でも自分のご縁を信じ、いのちを信じ、みんなが幸せになれる行動を歩んでいかなかければなりません。

苦しみを幸せも自身が受け止めて、人のせいにするのではなく、良いご縁となるよう自らが前へと歩んで行くことが幸せへの道なのだと信じます。


華厳経

「汚れた心からは汚れた世界が現れ、清らかな心からは清らかな世界が現れる」

仏教は縁を説きます。 オオカミ少年の話にあるように、人を騙す少年が最後信用をなくしてオオカミに食べられてしまうように、自らの心、行いが自らの世界を作っていきます。

人は必ず自分を中心に考えてしますものです。自分という肉体、存在があるのですから。
しかし、そうした心からオオカミ少年とまでは言いませんが、人を騙してしまったり、責任を逃避してしまったり、時に間違いをおこしてしまうものです。

そういった心をみつめ、こころを正しく持つ事が大切です。

人にやさしくされたいのなら、まず自分がやさしくしなければなりません。
そうした心をおこして、行動していくそうすることによって、清らかな世界が現れるのです。


大智度論  福果

「世間の人は心動じて、福の果報(かほう)を愛好し、しかも福因を好まず」

私達は誰しもが幸せを求めます。幸せを求めない人等いないのではないでしょうか。
しかし、ちょっとまって下さい。 福因を好まず、そのための努力はしているでしょうか。

良い縁を作っていく、相互禮拜相互供養、お互いにいのちが禮拜しあい供養しあう種をまいて行くことが大切です。

またお大師様は「それ仏法遥かに非ず 身中にして即ち近し」と般若心経秘鍵の一節にありますが、幸せとは他人や外にあるのではなく、自身の中にそれはあると言っております。

今あるものに感謝せず、外ばかりみてしまう私達、そういった感謝の心を育むことも大切です。


無量寿経

正心正意にして 斎戒清淨なることを一日一夜すれば無量寿国に在って 善をなすこと百歳するに勝たり

浄土にあって善をなすよりも、いまのこの人としてご縁がある此の時に、心を清らかに正しく持って過ごすことは浄土にいて百歳善をなすよりも素晴らしいことである。

ブッタは人として生まれて、あらゆる苦しみをみつめ、受け止め、悟りへ向かう道を開きました。
人こそが成仏できるのです、苦しみを知る分優しくも出来る。 

毘沙門天や帝釈天 いわゆる天界は寿命が長く力もあり、幸せの世界とされますが、その寿命が尽きる時大変な苦しみがあるとされ、また仏法が届いていない世界と言われます。
人間の世界こそが、究極の幸せ「悟り」へむかう事のできる世界なのです。
 仏教の善悪とは悟りへ向かうかそうでないかです。 仏様の願いがかなった浄土で善をなすよりも、今あるこのご縁を大切に、迷い苦しみ、そんな中でも悟り幸せを求めていく、その姿は大変尊いことなのです。


性霊集


「風(ほのか)に聞く三世の如来 十方の菩薩 四恩の徳を報じて悉く菩提を証す」

三世(過去・現在・未来)の如来、十方(あらゆる世界)の菩薩も、皆、四恩「三宝(仏法僧)の恩、父母の恩、国王の恩、衆生の恩」の徳に報謝して悟りの道を開いた。

 お大師様は此のようにも言っております。
「三世を達観するに、皆これ我が四恩なり

過去現在未来 自分自身の周りにあるものは全てこの恩を受けている。恩とは因の心と書きます。
自分自身が一人ではなく、あらゆるのと繋がり、あらゆるものの恩で自分自身、世界が出来ている。
その縁を理解し、自分自身の縁に感謝し、縁を活かして行くことが悟りへつながる道なのです。


北海道八十八ヶ所第34番御詠歌

北海道八十八ヶ所34番の御詠歌です。福王寺で八十八ヶ所の仏様を預かった時に第2代住職福井全雅師が作詞致しました。
道東に位置する福王寺と薬師如来の東方瑠璃光浄土を掛け合わせ、福王寺に詣った人がそのお薬師様のお力でお身体・お心の病が治るお寺であるように祈願し、そうある浄土となるよう努力していく歌であります。
お寺はたくさんのご縁で成り立っております。 檀信徒以外の方もどうか手を合わせに来てください。人が詣った分、お寺もまた成長していきます。 
心落ち着けてお参りできる浄土でありますよう、オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ


北海道八十八ヶ所第35番御詠歌


北海道八十八ヶ所35番の御詠歌です。これもまた第2代住職全雅が作詞致しました。
35番は厄除け薬師如来であります。
諸々の人の苦しみや厄を除く誓いをたてられ、その慈しみの光は陰を作ることはありません。
すべての人の魂、阿頼耶識そのものがお薬師様の力で清められて行くのです。

阿字の子が 阿字の古里立ち出でて また立ち還る 阿字の古里


高祖弘法大師第三番の御詠歌の歌詞でもあります。
私達は仏様のいのちを頂いて、ご縁があってこの世に生まれています。縁がつきればまた大きな仏様のいのちの中へ還っていくのです。
ちょうど海に生じる波が私達や動物植物、ありとあらゆるものであり。その形は様々です。そして各々の縁がつきれば波が海へ還っていくように、私達もまた大きな仏様のいのちへ還っていくのです。
すべてのものは仏様の現れであり、皆仏様の性質をもっています。お互いに供養し礼拝し、幸せな世界を築いていくことができればと思います。